昭和42年04月11日 朝の御理解



 お道の信奉者であるという自覚に立つ、そういう自覚運動と言うのが最近言われております。私は金光教の信者でございますと、信奉者でございますというそういう自覚に立つ、自覚に立ってのあり方にならなければなりません。でないとお道を穢す様な事になります。あれが金光様にばっかり参ったってと言われる様な事になります。私はお道の信奉者であると、教祖金光大神の教えに基づいた生活させて頂いとる私でありますという自覚に立たなければいけんと言うのです。
 その自覚に立ちませんとです、金光様の御信心を頂いておるご信者を所謂、まそれを持って言うならば、私は合楽の信者で御座いますと、金光教合楽布教所の私は信者で御座いますという自覚なんです。ありが合楽合楽と言うて参りよるけれども、あれが言うておる事は何かと、あれがしておる事はどうかと、あれが合楽の信者かと言われる様な事では、合楽のお広前の、いわば面汚しと言う事になるので御座います。
 ま自覚運動とはそういうことだと思うんですね。自覚に立つということ。だからいつも自分はです、ね、もう天理教さんじゃございませんけれども、あの天理教のはっぴを着ておられますですね。ひのきしんですかやらなさる時にはもう、必ず沢山な人があのどんな偉い人でも、どんな貧しい人でもです、こりゃもう同じ一色の、はっぴを着てからいろいろ奉仕、は天理教の信者じゃなと、と一目瞭然と分るような。
 いわゆる風体なんですね。私共もです、ね、形にこそそうではございませんでも、ね、後ろには言うなら八波のご紋章の入った紋付でも来ておる気持ちでなからにゃいかんのです。これは人間だけのことではありません。神様の上においても同じなんです。自分の信ずる神ばかりを尊びて、他の神を侮ることなかれと仰る。藪神、小神の前を通るでも、一礼をする心持になれとも仰る。
 自分のもう天地乃親神様、金光大神の信仰をしておるんだから、ほかの宗教宗派は、と言ったようなものでなくてです、それこそ藪神、小神の前を通るでも、一礼をするような心持になれというのは、私は教祖は、ね、お道の信奉者としての自覚がです、人間の前だけではなくてです、あらゆる神仏の前にもそういう自覚に立てと仰っておられることだと、私は思うですね。
ま、例えていうならば、石のお地蔵さんの前を通らせて頂くでも、っとこう一礼をして通るような気持ち、もし地蔵さんに心あるならば、あら、この頃は自分の前を頭どん下げて通るものはおらんけれど、実意丁寧に頭ども下げて通らっしゃたが、どこの誰だろうかとこう、ま、見なさったといたしましょうか。なるほど、金光大神の氏子じゃもの、金光大神の教えを頂いておる信者じゃもん。
 成程実意丁寧を看板としておる宗教宗派であるだけに、中々実意丁寧じゃな、金光大神は良い信者を持って幸せじゃなぁというふうに、私は思われるだろうと思うのです。ね、石の地蔵さん例えばその石の地蔵さんでもです、ね、もし心あるならばです私はそう思われるだろうとこう思うです。おれの前一礼もせず通ったと、そして俺が横で立ち小便どんして行ったと言う様な事になったらどう言う様な事になりますか。
 これがお互い人間の前だって同じなんです。先日ある教会の総代または総代級の方が二人で見えられました。ですから私は表まで送らして頂いたんです。そいで私はこちらの方からこうなら、私が送っとらんと思われたかどうか知れませんけども、勿論あんな風にいま現在整地があっとりますから、便所がそこにありますのに拘らずにですね、すぐそこんところで、二人とも並んで立ち小便されるんですよ。
 それこそ御地内を、みだりに穢すなよと、ああいうふうに教えておられるのにです、しかも金光様のご境内でですよ。私がもう、例え見えなかったからと言うてです、そこで立ち小便をする、私はもうほんとに、何かもうほんとに、もう嫌な嫌な感じでしたね。結局お道の信奉者としての、自覚に立っていないからですよ。自分の言うておること、自分の行うておること、ね、
 そういうような私はことにです、自覚に立ったら、はあ、こんなこと言うちゃ相済まん、こんなことをしちゃならんと言うことがすぐに分らして頂くんじゃないかと思うんです。同時にそれを霊的に目に見えない世界に言うならばです、はあ私こげな汚いことを思いよる、ね、自覚に立つとです、ね、そういうことになってくるのじゃないかとこう思います。同時にめぐりの自覚に立てとも言われております。
 お互いが様々な難儀に出会うというのも、家のめぐり、身のめぐりの、いわゆるめぐりの深い私だという自覚なんです。そこに私は難儀とも難儀とも思わず、ね、やれ痛ゃ、今みかげをよと言う心になれよと仰るようにです、今こそめぐりの御取り払いを頂いておるんでございますというお礼が出来ると。これはめぐりの自覚に立たなければできるこっちゃないですね。私は、お道の信心を頂かせて頂くならばです、ね。
 ほんとに大きなおかげを頂かにゃならんと、神様が願ごうておられるようなおかげを頂きたいと私は思う。そのためにはまずですね、まず私が大きな私にならにゃいかんです。ところがです、たったそのくらいなことが腹が立つ。たったこのくらいなことに顔色変えよる。たったこのくらいなことが、夜でも眠られん位にある。もう何と自分は小さい自分であろうかという自分の小さい自覚に立たにゃいかんです。
 もう何と自分な芥子粒のごとある、それこそ女子のけくされんごとある心であるなということなんですよ。なんと自分は小さい心の持ち主であろうかと、これでは大きなおかげを願う方が無理だ、と言うところからです、自分の心の小ささをです、愈々清く美しゅう大きくするための、そこから私は働きというか、精進と言うことがおのずと成されてくるんじゃないかと。
 自分な太っ腹だと、と言うのに腹が立ちよるじゃないかと。自分な太っ腹だ、と言いながらこのくらいなことが心配になるじゃないかと、ね、いわゆる自分が芥子粒のように小さい心の自分であるという自覚、ね、腹が立たんようになる。いらいらせんで済むようになる。どのようなことでも、自分の心ひとつにずっと治めていくことがでけるようになって初めて私は大きなおかげが頂かれるんだとこう思うのです。
 ちょっと家内がどうか言やぁ、もうもやもやする。あれがどうか言うたと言うたらもう顔色を変える。そういう時にです、私は自分の心の小ささ、と言うことの自覚に立たなきゃいけんと思う。そこで、こりゃ心を大きゅうせにゃいかんな、受けものを大きゆうせんといかんなという精進が成されてくるのですよ。はあ、苦い思いをする。ああ、臭い思いをする。様々なことがありますけれど、ね、
 それで今こそ私の心、私の心の胃腸と言うものがです、健全にならして下さる為の働きをです、それこそせんぶりでも飲まして頂いとる気持ちで、それを有り難く受けていく信心が必要なのです。はあこんな臭いものは嫌だと言わずにです、ね、今こそにんにくでも食べてる様な心持でです、そういうものを神様が与えておられると思うてです、健全な心の胃腸と言うものがそういう心の胃腸の働きが成されていく時にです。
 五体全体の上にも、そういう有り難い働きと言うものになってくるんだと。ね、自分の心をいよいよ太く大きく強くしていくための働きなのだと、それを合掌していけれる。それも自分の心の小ささと言うことにですね、自覚を持たなければ、そういう自覚に立たなければならんのです。無自覚の信心ほどつまらんことはない。同時にもう一つ、もう何と私は汚い自分であろうかということなんです。
 なんと言う汚い自分であろうかと。私はそういう自覚に立たなければいけんと思うです。そこからしか私は限りなく美しゅうならして頂こうという精進はなされないと思う。自分がよかつのごと思うとったんじゃ。もうほんなこと、私のごと汚か者なあるまいと、ようも私のごときたなかもんを神様がよう見逃しとって下さるなぁと。そういう自分の汚い自覚に立たせて頂いて初めてです。私がいつも言う限りなく美しゅうならして頂こうや、と言うことになるのですよ。
 汚い自覚に立たなければ、それが出来ません。信心はだからそういう自覚に立ってから初めて本当の信心と言うことが成されるとこう思うんです。私は今日は皆さんに様々な自覚に立て、と言うことを申しました。お互いがそういうね、汚い自分だ、小さい自分だという自覚に立つ、私はお道の信奉者であるという自覚に立つ。私は合楽にお引き寄せを頂いて日々教えを頂いている私であるという自覚に立つ。
いわゆる合楽の信奉者としての自覚に立つ、してもらう。それは人間の世界だけではない。ね、神仏様の前においても、金光教の信者であるという自覚に立たせて頂いて、藪神、小神の前でも一礼をして通らせて頂けるような私どもにならせて頂きたい。どうぞ自覚運動はです、そういう意味合いにおいて広い大きな意味合いにおいての自覚であり、また運動でなからなきゃならないと思うですね。
   どうぞ。